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友からの手紙

H29.10.20

第120号

 今朝学校の正面玄関に、ハンドボール部女子が国体で3位になったことを讃える掲示があった。ピロティに在るのは知っていたのだが、玄関のものは賞状も加えて掲示してありそれを見ると一段と喜びが溢れてくるのだ。それと同時に、この高岡向陵高校で彼女たちと一緒に学んでいることが誇らしくなる。

 だから決して掲示物一枚と侮ってはいけない。そんな一枚が学校の雰囲気をがらっと変えるのだ。だからこういった掲示をきちんと続けてしてくれている人のいることに感謝して、忘れてはならない。

 先日から幾つかの中学校を回らさせてもらっているのだが、いずれの学校も県選手権や、先日から行われた新人大会の優勝カップや優勝旗が誇らしげに飾られている。その前を嬉しそうに歩く中学生の姿に、「やっぱりこうやって様々な部が活躍することは、学校の子供たちに随分といい影響を与えているものだ」。そんなことを再認識させられた。自分の学校にいるといつの間にかそんなことが当たり前になって、大切なことだという認識が薄れてしまう。気をつけなければならない。

 昨日家に帰ると、机の上に友人からの手紙が置いてあった。先日電話をくれた友人なのだが、遠くにいてもいつも気に掛けてくれている。ありがたい。そしてこの「校長室だより」も読んでくれている。

 先日はギターの演奏にがんばっていると話していた友人は、今回の手紙で退職してからもっともっと生き生きとがんばっていることを報告してくれた。忘れていたのだが学生時代から続けている尺八は師範級なのだが、退職してから若手のプロの演奏家に師事しているそうだ。彼によるとかなり厳しい先生で、63歳白髪の友人に「できません」という言葉を許してくれないそうだ。

 音を聞き取る課題があまりにもできないので、「できなくて、すみません」と彼が言うと、すかさず「すみませんと言わない」と厳しく返されるようだ。若い先生には、弟子が幾つであろうと関係ないという。友人は私に、「人を指導するということは、こういうことだと思います。ありがたいことです」と教えてくれた。そして「先生の前では、気持ちだけは年齢を忘れます。先生の前で私は中学生です」とあった。

 先生の姿から指導者の在るべき姿を学び、友人の姿から学ぶべき者の在り方を学ぶ。本当にありがたい手紙の内容であった。まだ教師である私は、教える立場であり、学ぶ立場でもある。どちらの姿からも学ばなければならない。ありがたい。

 友人の手紙にはこうもあった。昨年の11月に独学で行政書士試験に合格したので、自宅の一室を事務所にしてこの9月から遺言・相続を専門として開業している。私と同様小柄な彼の何処にそんなバイタリティがあったのだろう。驚いている。

 出身も大学も年齢も違う友。たまたま千葉の地で1年間居を共にした。何だかいつも一歩自分より前を歩んでいるような気がする。優秀な彼には到底及ばない私であるが、彼の生き方からは沢山学ばなければならないと感じている。

 今回色んなことがあるのだが、北海道から愛知から、新潟からそして千葉から、先輩や友人から沢山の「がんばれ!」メッセージが届き本当にありがたいと感じている。

 私にできることは、そのメッセージを希望に変えて目の前の子供たちに自分のできることで返すことだと思っている。今日も一日がんばろう!


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代休

H29.10.19

第119号

 昨日は代休だった。家人が退院したが、まだまだこころも身体も元の状態とはいえず少しずつ少しずつリハビリに取り組んでいる状態である。外出も少しずつではあるが、するようにさせている。

 昨日は外出にはちょっと寒い日であったのだが、休日とは違い外出してもそんなに混んではいないだろうと考えた。そこでこの機会に家人の気分転換やリハビリも兼ねて、以前知り合いから頂いていた「中島 潔 “今”を生きる」展の前売り券があったのでそこへ出かけることにした。

 ところが平日というのに駐車場は自動車で一杯であった。元々風と花の好きな私には、ぴったりの絵ばかりであった。「風は揺れ動き流動するもの」そして「風は故きを温ね新しきを知るもの」。「風はそこにとどまらず、新しい命をもたらすもの」。そんなふうに私はとらえている。

 「花は命を輝かせるもの」そして「喜びをもたらすもの」。「花は今一度の再生を促すもの」。そんなふうに私は思っている。

 中島 潔さんの絵を、一つ一つ愛おしむように鑑賞させて頂いた。静かで風など感じることのないはずの館内に、すーっと昭和の懐かしい風を感じた。子供たちのざわめきも何か昔のレコードかテープレコーダーから聞こえるような、懐かしい響きがあった。花は風の爽やかさと子供たちのざわめきに囲まれて、より美しさと愛しさを増す。

 命を愛しむことができた。

 食欲を取り戻させようと、帰りに自然食品のお店を選んで優しさ中心の食事をした。そこは若いお母さん方の情報交換の場にもなっているようで、どちらかというと私たちのような年寄りはいなかった。それだけでなく男性は私一人であった。帰ってからたまたま実家に来ていた真ん中の娘に、「お父さんよくそんな店に入れるね。家の旦那なんか入りたくても、焼き肉、ラーメン…。そんなとこ恥ずかしくて入れんちゃ」と言われた。加えて、「そんなとこ入る男子ちゃ、もてもて男子やよ、普通…」と言われ、「なーん、もてたことないは。でも別に恥ずかしくないけどね。自分が思っとるほど、周り見とらんもんや」そんなたわいのない会話をした。

 その店で私は食事の後、ホットコーヒーを注文した。そのソーサーに何か黒い物が着いている。気をつけてみると、そこには音符があった。この「校長室だより」を読んで下さっている皆さんはお気づきだと思うが、私はこの音符が大好きである。もうとっても嬉しくなってすぐさま店員に、「これ音符ですよね?この感じいいですね。大好きです」と家人が困惑するのも構わず一言話してきた。

 結局随分私が食べることになったのだが、それでもきっとこころと身体のリハビリにはなったのではないかと思っている。まあー自己満足かも知れない。

 それでも音符はきっとこころを弾ませてくれる。この音符がとっても好きになったのには訳がある。南条小学校の校長の頃、砺波地区出身で落下傘候補のような私は、何とか土地の人に馴染もうと毎日朝6時前から各地区の集団登校の子供たちの処へ行って一緒に登校していた。今日はあの地区の子供と明日はあそこの地区というように毎日子供たちと一緒だった。

 その際気づいたことがある。それは1年生から6年生まで並んで登校すると、そのランドセルがまるで音符のように子供たちが歩く度に飛び跳ねるのだ。これを眺めながら歩いていると、まるで子供たちがリズム良く音楽を奏でてくれているように感じたものだ。そこにおいて子供たちは背負っている背景を無にして、美しい。そんなことを思っていたものだ。

 だから音符が大好きだ。そんな私なのだ。

 音符を眺めていて、ふっと大好きな詩人谷川 俊太郎さんの「成人の日に」という詩を思い出した。

 おとなは一生大きな子ども

 どんな美しい記念の晴れ着も

 どんな華やかなお祝いの花束も

 それだけではきみをおとなにしてくれない

 他人のうちに自分と同じ美しさをみとめ

 自分のうちに他人と同じ醜さをみとめ

 一部であるが音符は、きっと明日も楽しく嬉しく、美しく弾んでくれるに違いない。そう信じている。


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同じではない

H29.10.17

第118号

 随分寒くなってきた。一枚羽織らないと、少々ブルッと来る。少しずつ少しずつ今年も、いつの間にか終わりに近づいているのだ。ここに来て四季とは上手くできていると、今更ながら感慨深い。この歳になると終わりを感じるようになり、どう終わるのかをちょっぴり考える。実感としてそうかというと、まだまだ修行が足りない。そんなふうには思うのだが…。それでもそれなりに考える。

 今朝は梨と柿と蜜柑があったものだから、突然静物画のように並べてみたくなった。本当は栗もあったはずなのだが、もう食べられないので冷凍してしまってあった。

 並べてみて、何か感ずるところがあった。先ずはやっぱり実りの秋。色づいた果物の恵みのありがたさを思った。いずれも甘みが十分である。でもその甘みの中に酸っぱさ、渋さなどがちょっぴり含まれている。それをかき消すかのごとく甘みが勝っている。でも、しっかりと少しだけ甘みの中に、そうでない部分がある。

 それを私は大事にしたい。十分な甘さの中に、そうではないところがあるから、より美味しいのではないか。そんなふうに考える私は、少しおかしいと思われるかも知れない。だが、そうなのだ。

 子供たちを集団でとらえると、全員が自分の理想に当てはまるのが一番教えやすいのだろう。だが、人間である以上、そして様々な人が存在する以上は、そんなことは無理である。そしてそうでは無いことの方が普通である。自分の思いと違っていることを尊重する人でなければ、この仕事には向かない。そんなふうに思える。

 多様な物差しを持つこと。そして自分の物差しで測れない個を、大切に尊重すること。そんなことが大切だと感じる。

 梨と柿、蜜柑を並べてみて、梨が柿より勝っている。いや、蜜柑こそが梨よりも美味しい。そんなことを真面目に議論しても、結論など出ることはない。元々梨と柿、蜜柑は、見た目も味も違う。だから比較のしようが無い。もっと言うと、同じ梨でも柿でも見た目は同じでも食べてみないと美味しいかどうかは分からない。

 同じでは無い。みんなそれぞれがそれぞれに、違った味を持っている。果物なら「味」。ならば高校生はなら…、それは…。「夢」なんじゃないか。そんことを今朝ピロティの書を観て思った。同じでは無い一人一人の「夢」。そんなものを大切に育ててやりたい。そしてもしかしたら現実の前にすくんでしまい一歩前へ進めないとしたら、ちゃんと見守って背中を押してやりたいものだ。

  そうは思われませんか?少なくとも私は、そんな大人でありたい。

 書にはこうあった。

「きっといつか夢をつかむ その日まで僕らをつなぐみらいへ 夢」