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雨に想う

H31.3.22

第223号

 今朝は雨。かなり降っているのだが、そこは冬の叩き付けるような雨とは少し違う。自動車のフロントガラスにもぶつかって大きく跳ね上がったり、予想以上に流れるように広がったりしない。優しくつつましくその場を離れていくような様である。

 学校に着いて、耳で春の雨を楽しむ。静かにすうっと通り過ぎていくような雨音。時たま自動車がその雨音をかき消すように、糸を引くように僅かに流れるように雨音を続ける。目を閉じると何だか優しくなれる。

 今日は修了式。各々それぞれの学年を修了し次の学年へと進む。一人一人が次の学年へ進級するということの、自覚と責任を感じてくれたら嬉しい。実はそんなことはなかなか子どもたちは、気付かない。大人が1年間の学業を修了し、次の学年へと進むことの意味や意義を紐解いてやらなければならない。そのことは先に生まれた者の責任なのだと思う。

 ピロティには華道部が生けた花々が美しい。花は自らの命の儚さを知りながら、その瞬間を一時でも無駄にしないように精一杯に咲いている。そんな花を観て、美しいと思う。そしてときは無限ではないことを教えてくれる。

 子どもたちには、この与えられた限りある時間を精一杯光り輝いて生きてほしい。そんなふうに花を観るといつも思う。一生懸命は、いつか必ず花開くときが来る。そんなふうに思う。

 さて選抜大会で全国5位入賞を果たした、相撲部の子どもたちが入賞の挨拶に校長室に来てくれた。みんな笑顔で、すっきりした顔をしていた。私は相撲のことは詳しくは分からないが、きっと彼等なりに今自分たちができる精一杯を出し切って来たのだと感じた。そんな清々しい顔をしていた。見ていて何だかこちらも清々しい爽やかな気持ちになった。ありがたい。


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ムーンナイト

H31.3.20

第222号

 ちょっと馬鹿な私は、今朝「222」と校長室だよりの号数をキーボードで打ちながら、こころの中で「♪ニンニンニン♪」などと呟いていた。何だか同じ数字が並ぶと、嫌なことがあっても少しだけこころが弾むから面白い。

 今朝は庄川堤防沿いの道路を、履き替えた夏用タイヤで軽快に走ってきた。途中運転席の右側の窓から、太陽がどんどん昇る光景が美しく見られた。グングン昇るその光景は、まるで身体中の血管に血液を十分に循環させるように、この地球に命を与え続けているようにも思えた。

 当たり前の現象に何故か感謝すべきなのだと感じることが、少しずつ増えた。それはきっと今まで当たり前だと思っていたことが、実は決して当たり前ではなく、むしろ貴重で奇跡だと気付かされる日々だからなのだろう。生かされている偶然とありがたさを思う。

 昔から夜空の月を見上げて物思いにふけるのが好きである。そんな私も最近はめっきり月を見上げ眺めることも少なくなった。ムーンナイトと書くと、何だかロマンチックな表現なのだが、どうもムーンナイトは命の根源に繋がっている夜のように思える。

 先日八年目の3.11を迎えた際にも、沢山の追悼の言葉や映像がマスコミに流れた。実はあの日の映像を今でも克明に記憶している私は、未だにテレビなどであの日の映像が流れるとスイッチを切ってしまう。そんな私が新聞の書評欄で、作家 天童 荒太さんの「ムーンナイト・ダイバー」という小説を知った。

 急に読んでみたい衝動にかられ早速手にした。

 「(前略)生きつづけようとすれば、きっと本能的に求めずにはいられない欲求が、生きていることの哀しみであり、肉体を持っている者の限界でもあるだろうから。それは生きている人間を、後ろめたさや罪悪感の縄から解くだろう。と同時に、失われた命もまた、単純な数字や、過剰な飾りつけから、解き放つことになるだろう、と感じたのです。失われたものも人間であり、生き残ったものも人間である。そのことに忠実であることでしか、本当には悼めない、見送れない。(後略)」

 悼むことでしか、本当に悼むことができたときにしか、真実人のこころは解き放たれるのかもしれない。そんなことを天童さんの本からは、いつもメッセージとして伝わって来るように思える。それでも一瞬はそう感じても、また深い淵に沈み込んで行くのが人の気持ち。生きるってことは、その繰り返しなのかも知れない。

 

 


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祈りの春

H31.3.19

第221号

 今朝は随分温かい。本当に春はもうそこまで来ている。いつの間にか草花は芽吹き、花点けるのを今か今かと待っている。季節はスタートに相応しい。

 昨日は県立高校の合格発表の日。悲喜こもごも。沢山の喜びと悲しみがあったに違いない。喜びを十分にかみしめるがいい。来る新たなスタートに向けて、今を存分に楽しむことは大切だ。

 思い通りに行かず、悲嘆に暮れている。そんな子どももいるだろう。大丈夫、君への春は周りよりちょっと来るのが遅れているだけ。今の辛さや悲しみは、次来る春へのプロローグ。ちょっとだけ神様は君に試練を先に与えたのだ。それもみんな、次の喜びをより大きくするためのもの。

 悲しみを含まない喜びなどあろうか。辛さを思わない、楽しさってあるのだろうか。悲しみは喜びを、辛さは楽しさを、共に知って温かい。春待つ冬に、冬来る秋に、人はきっと喜びや悲しみ、辛さや楽しさを知るのだから…。

 詩人の八木 重吉さんの「春」という短い詩の中に、「二つ合わせた手が見える」というフレーズがあるそうだ。言われてみて成るほどと納得する。確かに春の中には、「合わせた手」を感じる。

 そう。「春」という字は、手を合わせる日々。そんなふうに読めるのは私だけだろうか。そう考えると「春」はまさに祈りの季節なのではないかと思った。

 巡り来た、柔らかで温かな光り溢れる季節、春への感謝なのか。新たなる生命の誕生の息吹と、新たなるスタートへの平安なることへの祈りなのか。

 春は、祈りの季節なのかも知れない。

 さて昨日も嬉しい知らせが、校長室へもたらされた。吹奏楽部のYさんが「富山県青少年音楽コンクール」で見事優秀賞に選ばれた。少ない吹奏楽部員の中にあって、毎日毎日一人で練習に励んでいるYさんは、本当に健気で立派である。神様はちゃんとその努力を見逃さない。本当におめでとう。これからも精一杯がんばってほしい。応援している。