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向陵点描2

R1.5.24

第35号

 昨日も高岡向陵高校は、沢山の活動を子ども達と共に行った。先ずは地震を想定した避難訓練を実施した。毎年行っているのだが、少しずつ非難の仕方が上手になっている。特に私語が減った。そんなことは当たり前だと思われるかもしれないが、私語が減ったということはそれだけ自分の命に対する意識が高まったのだと考えている。まだまだ避難するのに時間がかかりすぎていると感じる。素早く行動できるように訓練を続けていかなければならない。

この訓練であるが子ども達の意識を問われていると同様に、実は大人の方の意識も問われていることを忘れてはならない。40年ほど前私が関東のある学校で勤務した際、まだ新採であった私は何故か安全主任を仰せつかった。従って避難訓練の計画から子ども達への指導、先生方への伝達も全て任された。まあ、計画等については前年度のものがあり、それに従って作成すればそれで問題はなかった。

問題だったのは、避難訓練当日であった。当時から東海沖で大きな地震が想定されていたし、当時宮城県沖の大地震で沢山の子ども達が命を落としていたこともあり、消防の方々の指導は半端ではなかった。

特に子ども達一人一人の「確認」は、きちんと目視のみならず手で触れて存在を確認した。また特に厳しかったのは、子ども達の人数報告の声の大きさである。殆どの教師が上司に聞こえればいい程度の小さな声で報告していたのだが、すかさず指導の方から「報告は、周りにいる人みんなに聞こえるように。もしいない子どもがいたら直ぐに探しに行かなければならないでしょ!」と厳しい指導を受けた。それ以来私は、避難訓練の人数報告は誰よりも大きな声で行ってきた。

ただ、それを知らない周りの先生方から「この人避難訓練の際には、やたら大きな声で張り切ってるな」ぐらいに思われていた節がある。「変わってる!」。そんな感じだったように思う。それにしても若い頃に厳しく指導されたことは、そのまま身に付くものだ。先輩からの厳しい指導は、年を取ってから随分財産になっている。

また昨日は避難訓練だけでけでなく、1年生は産婦人科医の種部 恭子先生から性についての講演会を聞いた。避難訓練と同様、「性」は「生」に繋がる「生き方指導」である。命の教育である。毎年種部先生から指導を受けているのであるが、本当に子ども達にとって分かりやすくかつ意義深いお話である。

お教えいただいたことを、自らの生き方にきちんと生かしていってほしいものだと思っている。誰の「生」でもない、あなた方自身の「生」なのだから…。


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こころを育てる

R1.5.23

第34号

 いつも子ども達の授業の様子を見て回っている。落ち着いた様子で学習に取り組んでいた子ども達も、ゴールデンウィークを過ぎて5月末になってくると少しずつ疲れや慣れから来る中だるみが見られるようになる。そこに来て連日の暑さ。もう猛暑と言っていいくらいで、毎日30度近くになっている。

 それでも殆どの子ども達がしっかりと授業に取り組んでいる。まあー、中には大きなあくびをしたり、隣の子どもと私語をしたり、そんな子ども達も見られる。

 そんな中、昨日授業を見て回っていたら、1年生の主任の高桑先生から「校長先生、今の時間1年生は全クラス道徳の授業をしていますよ!」と声をかけられた。実は校長としてこんな声掛けが大変うれしいものである。何よりも学年として全員が子ども達の「こころを育てる」ために、一致団結して物事に取り組んでいることが有難い。そしてその光景を見てくださいと言われているのだ。こんな嬉しいことはない。

この道徳の研究、いよいよ今年で3年目になる。「人間は偏差値の高さではない。こころが大切だ」とどれだけ声高に叫んでみても、それについて何の取り組みも行っていなければそれはただ単に負け惜しみにすぎない。それを形にしなければ教育ではない。

回ってみる。どの教室の子ども達も「笑顔」が多い。私が回っていると、「授業中にも拘わらず、あるクラスでは『こんにちは』と挨拶してくれた」。かつて指導主事をしていた頃、長閑な農村部の学校を訪問した際に、こんなシーンがあったな。記憶の隅から思い出した。決して授業中に挨拶するのはいいことではないのかもしれない。それでも何だかありがたい、シアワセな気持ちになった。

こうやって全ての子ども達に高校生になっても道徳を行い、「こころを育てる」ことは無駄ではない。何か子ども達のこころにきっと響くものが有るはずだと思う。子ども達の笑顔を眺めながらそう確信した。

午後からは生徒会主催の体育大会に向けての、種目説明会。そして各団全ての学年がそろっての団結集会。この時ばかりは、一番気合が入るのが毎年3年生。顔は真剣そのもの。声も上ずって、いつの間にか大声になっている。その一生懸命さは大人など近寄ることもできないくらい純粋である。その純粋さを失わないでいてほしいと願う。

「一つに…」、「共に…」。そんなフレーズが似合うのは、やはり10代なんだとこころから思う。学校って、そんなことを日常生活の中で繰り返しながら、子ども達のこころを育てているんだと思う。ありがたい。


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向陵点描

R1.5.22

第33号

 今朝のピロティを通ると、何だかちょっぴり灯を点したように明るい場所があった。そこには華道部の生けたカラーの白があった。その白がほんのりと明るい。もしかしたら生きて行くってことは、暗がりに小さな花の明かりを見つけるようなものなのかもしれない…。そんなふうに思わせる今朝のカラーの白であった。

それでも空間に水平を保つような花器の直線と、背筋をピンと伸ばすように真っすぐに空に向かって垂直に生けられたカラーの直線とは観ていて気持ちがいい。こちらの精神をスッキリさせる。こうありたいものだ。そんなことを思わせる。

時に生けられた花は、自分の在り方や生き方を示唆する。日本の文化とは、趣味や芸事の中に「道」が含まれているものが多い。ただこなすのでは無く、そこに自らの生き方が反映されるものが多い。だが、本当に生き方に生かしているのか最近では甚だ?を思う。そこにおいて日本の伝統文化への冒涜ではないか。そんなことを「道」の付くことなど何もしたこともないのに思う。不遜なのである。

さて、昨日本校では「交通安全教室」が行われた。最近では毎年のように自転車の乗り方について教えていただく。特に自転車は時に加害者となって重大な事故をもたらす。何気ない自転車の乗り方が、他人の人生を滅茶苦茶にしてしまう恐ろしさを幾度となく教えてもらっている。

にも拘わらず、人は「自分だけは…」と思って生きているようである。確かに自分なども「自分だけは、今日も生きていられる」などと、何の保証も、誰に言われたのでもないのに、無意識にそう考えている。今日あるを感謝することを忘れている。

「自分だけは…」などというのは、まさに幻想にすぎない。向陵生諸君、十分に自転車に乗る際は気を付けてほしいものだ。それと同時に、今あることに感謝し積極的に生きてほしいと思う。

そうそう昨日学校内を何度も見回っていたのであるが、生徒会顧問のO先生が「生徒会の子ども達がんばっていますよ!」と教えてくださったので、少し生徒会室にお邪魔した。6月5日の体育大会の準備に一生懸命に取り組んでいた。今年になって生徒会から体育大会までの日程や取り組みについて、様々な予定が出てありがたい。また、昨日の交通安全教室や先日行われた久木さんの講演会等の、生徒代表の感謝の言葉もよく考え練られた素晴らしい挨拶が続いている。ありがたい。

サッカー部の子ども達が練習を終えて汗を拭きながら、笑顔で仲間と話していた。傍らを通るときに「ごくろうさん。がんばとるね!」と声を掛けたら、「こんにちは。はい!がんばってます!」と元気に返事が返ってきた。「顧問のA先生、サッカー上手やろ?」と尋ねると、「はい!すっごく上手いんです!」とまたまた元気に返事が返ってきた。「そりゃー、サッカー処静岡で、ずっとサッカーしてたんやから」と会話が弾んだ。

やっと11人揃ったサッカー部は、試合に出場できるようになった。それだけで子ども達の満面の笑顔。何も勝つことだけが、部活動に取り組む喜びではない。11人揃った。そして若いA先生と11人の高校生の物語が始まっていく。そこにも青春はある。そしてドラマはある。

そうそう1年生の未来探求の進路についても、昨日は丁寧に担当の先生方と話し合った。本当に一人一人の子ども達を先生方がしっかりとみて把握されており、「安心」できた。大事なのは偏差値の高い大学に何人入れたかではない。こうやって子ども達の特徴を丁寧にみて、その子と共に未来をみることだと、校長は考えている。少ない人数だからこそ、しっかりと一人一人を見つめてやらねばならない。

学ぶとは胸に真実を刻むこと。教えるとは共に希望を語ること。学生時代大好きだったフランスの詩人ルイ・アラゴンの言葉を思い出していた。ありがたい。